卒業式の想い出

みなさん、こんばんは

今回は、今月のお題でもあります「卒業」をテーマに、私の生きてきた時代も振り返りながら卒業式の想い出を綴ってみたいと思います

 

私は昭和45年(1970)生まれです

私が経験した卒業式は、小学校・中学校・高等学校になります

 

とある市立小学校を卒業したのは昭和57年(1982)です

その頃は今とは違い生徒も数多くいて、一クラス35人ぐらいで五クラスか六クラスはありました

体育館に在校生や親御さん、先生方が集まり、卒業証書の授与(当たり前ですが)、卒業生、在校生それぞれからの贈る言葉などなど

当時、「3年B組金八先生」が全盛期だった頃です

その「贈る言葉」に乗せて、送り出されたのを思い出します

 

かれこれ40年近く前になります

その頃の校舎の大部分は老朽化のため建て替えられ、今では色鮮やかな学校に生まれ変わっています

6年生の担任だった先生は、なんと私の子どもが通っていた小学校の校長先生になっていたのは、びっくりでした

時代を感じさせます

 

余談になりますが、私が通っていた小学校には当時「みよちゃん便所」というものが存在していました(下世話な話題で申し訳ありません)

木造の古いトイレが運動場の片隅にひっそりとあり、運動場の周囲に植えられた桜とのミスマッチが変に印象に残っています

小学生の自分たちからすると、用を足すにもその薄暗い雰囲気からとても出来たものではなく(多分誰も使用していなかったでしょうね)、便所(トイレ)ということだけはわかっていました

名前の由来は、この小学校に通っていた「みよちゃん」という女の子が、便器の中に落ちて・・・水洗ではありませんので、肥溜めに落ちたんですね

そこで用足すと、「みよちゃんが便器に引き込もうとする」言い伝えがありました

(今から思えば、そういった話は巷でもよく聞くのですが)

お化け屋敷的な存在でした

 

卒業式が終わると在校生、先生方が中心となって、二人一組で人のトンネルを作り、拍手喝さいの元、卒業生は通り抜けます

とても爽やかな気分で、晴れやかな卒業式だったとの印象が残っています

 

時代からするとベビーブームにほど近い年代、今から思うと成長著しい同級生が多かったように思います

ちなみに私は、黒縁メガネをかけておりました(笑)

 

中学時代

私が住んでいたところは、通う中学校の校区の一番端で、もう百メートルも下ると自転車通学が出来た位置にありました

というと、徒歩で一番長い距離を通う羽目になります(涙)

その中学校は、道路から少し横に入ったところにあり、高台にあったため、長い坂道を登る必要がありました

坂道の脇には銀杏が列をなし、秋には黄色一色になってとても風情があったものです

小学校とは違い、生徒数は校区の都合からか少なく、クラスも4クラス

こじんまりとしていました

当時はもう「校内暴力」も下火になっていましたが、他の学校ではまだ残っていたようです(我が母校では、不良?呼ばれる生徒もいましたが、おとなしい方だったように思います)

 

さて、卒業式の話題に戻ります

中学3年、時代は昭和60年(1985)

当時、卒業式の慣し?というか流行りでしょうか、好きな男の先輩が着ている制服の第二ボタンをゲットする、うちの学校でも他にもれず女の子達はこぞってやってました

かくいう私も類にもれずと期待しましたが・・・残念でした

卒業式当日の中学生活最後のホームルーム

和やかながら凛とした雰囲気の中、先生が私達に贈る言葉を投げかけたその時、クラスメートで用意していた一輪の花を先生に贈りました

先生にとっては、まさにドッキリだったに違いありませんが、その時目に涙を浮かべていた先生の仕草が今も思い出されます

私はこの中学生活の中で、この3年生の1年間だけが唯一の良い思い出として残っています

そして、この担任の先生が一番心に残っています

自分を1人の生徒として、そして人間として親身になって見守ってくれた人だったからです

今、母校は廃校になり、廃屋だけが残っています

そのほとんどが辛い想い出ばかりですが、良い思い出もあります

朽ちていく学校を見るのは忍び難いですが、取り壊されず思い出に耽ることが出来るだけでもありがたいのかもしれません

 

余談ですが、学校のすぐ横に道が通り、そのまた横(つまり学校の向かい側)にお城のある桜の綺麗な公園があります

その昔「弁天橋」という赤い木造の橋が、道を跨ぎ架けられていました

当時、今ほど道は広くありません

多くの人が利用したのであろうと想像の域を超えませんが、体育館の側に今も「弁天橋」の柱の跡が残っています

つい最近行ってみたのですが、残念ながら柵に覆われ入ることすら出来ませんでした(涙)

 

高校時代

それまでの義務教育時代に別れを告げ、偏差値で志望校は難しいと言われたため、電車に乗り隣町の高校に通うことになりました

そういった理由もですが、「あそこの高校は、女の子の方が多くて、可愛い子もいっぱいいるぞ!」との噂につられ志望した理由も実はあります

確かに6:4ぐらいで女の子は多かったです

さて、高校時代

私は陸上競技に没頭しました

というのも中学時代、少々中距離走で記録を残したもので、有無を言わさず陸上部に名前が載っていました(笑)

中長距離、寂しいものです

華やかさはありません

隣はサッカー部です

当然、女の子の視線はサッカー部に、私達はそれを横目に黙々と走り続けていました

高校時代の想い出としては、生まれて初めて女の子から告白されました

小学生のとき、冗談で「結婚しようね」というのはありましたが・・

今から思えば半分後悔ですが、実はお断りしました(涙)

それから先は、期待も叶わず彼女も出来ず、寂しい青春でした

しかし、唯一誇りとなるものがあります

陸上の花「駅伝」です

地方の大会でしたが、チームは優勝し、私は区間2位で「敢闘賞」のメダルを

今も大切に飾っています

 

卒業式ですね

うちの高校には吹奏楽部がありました

小学校の時もそうでしたが、そのときの流行りの歌が流れ、送り出されるのが半ば定番の世の中

管弦楽器が鳴り響く中、卒業生入場、そして退場

でも、それはそれなりに感動的で、心に響くものがありました

卒業後、県外の大学への進学が決まっていた自分にとっては、まさに巣立ちにふさわしい卒業式だったと思います

 

その高校も廃校となりました

一つ違うのは、名前は残しまた新しい学校へと生まれ変わったことです

これからも生き続けて欲しいと心から願ってやみません

 

お題にそぐわず私の昔話が多くを占めましたが、これで終わらせていただきます

ありがとうございました