吃音を改めて考えてみた

こんばんは

いつもお読みいただきありがとうございます

 

私は過去のブログで「社会不安障害」に悩んでいる

そして、そうした中で奮闘してきた自分について書かせていただきました

ブログでも書きましたが、「言葉が思うように出ない」、頭に中では何を言いたいのかがきちんとわかっているのですが、それが言えない

駅で切符を買おうとしたが、窓口で駅名が伝えられない

なんども列に並び、ようやく買えた話

特定の言葉(自分がかつて言えなかった言葉)、そして言えていた言葉が、詰まってしまったことがきっかけになって、言えなくなってしまった

まだ、会話の中でなら、さして緊張もしていない中なら言えるのに、電話を架ける、受ける、また自己紹介など、人前で話さなければならないときは、不安や緊張に苛まれながら、発汗からさらに緊張が高まる中で、発語するその時を迎える

言えたらホッとするけど、言えなかったら・・・・

そうした自分と対峙する中で、いじめられた過去、人との付き合いを拒否するようになった経緯から社会不安障害(社交不安障害)となって久しい今を振り返らせていただきました

 

新しい職場となって本格的に稼働することになった今、この言葉が言えない(吃音)症状が増しています

昔からそうなのですが、働く上で必ず必要になる会社名(事業所名)が言えない、最初または別の言葉で詰まってしまう

だから自分を名乗るときにまず詰まってしまうので、後はそのことで頭がいっぱいになって、集中力は衰え普通の時のたぶん半分程度の力しかはっき出来ない

今、そういう場面に立たされています

特にこの時期、自己紹介をする頻度が高くなります

その度に不安、緊張、恐怖と戦わなければなりません

そして仕事上必要となる電話での応対(架電・受電)、まさに1日中戦争です

なので、自分が今後どうなるのか、きちんと仕事が出来るのか、先が読めません

 

そうした中、改めて吃音という言葉に触れる機会がありました

いわゆる「どもり」です

自分の症状とぴったり合います

そうだ「吃音だ」と思いました

それまであまり気にかけてはいなかったのですが、記憶を紐解くと確か小さい時分、親から「どもる」そして話し出したら止まらず、そして口が追いつかず早口になる、指摘され、またそれに効くとされる家の近くの祠にお参りに行った出来事が思い出されたのです

 

その本によると、吃音に悩む人は100人の1人とされ、国内に120万人いると書かれています

また、吃音に対する歴史は古く、これまで親の躾(特に母親の)方によるもの、脳の気質的なものによるもの、遺伝によるものといろんな説があります

今となっては何が原因かはわかりません

それよりも現実から打破したい、それだけです

 

吃音には、連発(お・お・お・おはよう)、難発(・・・・・おはよう)があります

私は両方だと感じています

会話するとき、自ずと人と対面します

言葉が出ない、もしくは吃っていたりすると、相手は不思議そうな、怪訝そうな表情を浮かべます

あれっと感じるのでしょう

その気持ちはよく理解出来るのですが、取られた方の自分にとっては、言いたいことが言えなかったショックが落胆に変わります

引きつりながらも表情を装って何とかその場面を終えますが、人とは違う自分、普通ではない自分という閉塞感を常に持ち続けることになります

 

私は、今この症状をカミングアウトしています

人に話し楽になるのかどうかはわかりません

吃音は普通に話せる人にとっては理解出来ないものです

吃音を持つものも、自分をカモフラージュするのに必死です

なので、一目では吃音者とはわかりません

また、いくら吃音者でもいつもいつも吃っているわけではありません

スラスラ言える時はあります

だから余計に吃音はわかりづらいでしょうし、この辛さはあまり理解されません

よく、「慣れたら大丈だよ」って言われます

慣れは確かに大切だと思います

慣れることによって、トラウマは軽減されるかもしれません

誤魔化し方も板につくのかもしれません

でも、根本的な解決になるのか、そういう問題ではない、そう思います

 

先にも書きましたが、今言葉の壁に立ち向かいながら生きています

心が落ち着いている時、あっ今日は口が軽いと思える時、吃音から解き放たれることがあります

言えているのです

なにものにも代えがたいひとときです

普通に言葉が言える喜びです

そんな中でさえも、ちょっとした意識の差、タイミングで吃音は起こります

吃音は突然やってきます

自分は意識していなくても、体は意識しています

 

何度も書きますが、吃音はその状態、その場面を見せない限り、他人にはわかりませんし、理解されません

しかし、いくらカミングアウトしたとしても、その自分をさらけ出すには相当の勇気がいります

自分にもプライドはあります

 

吃りは発語するタイミングによって起こるものとされています

独り言で話す時は吃音は起こりません

自分のタイミングで話せているからです

人と対面する時、電話で話す時、どこかで必ず意識しています

吃音は訓練等で軽減出来るとあります

しかし、治癒はしないでしょう

吃音、そして社交不安障害、精神薬、人生を狂わされました

今、最悪の時にいます

生きることへの価値を見出せないでいます

 

最後に吃音が治ったらどう思う?

と問いかけられたとしましょう

吃音が治ることにより、それまで被ってきたものを脱ぐ必要に迫られます

吃音を理由に自分を守ってきた術があります

それを取り払わなければならない

要するに、自分を変えなければならない

それはそれでとても恐怖だし、計り知れない労力を要します

そうなら一生このままで、という気持ちにもなります

 

私は普通ではありません

普通とは何?って言われそうですが、簡単に言えば普通に話せている人です

それだけです

 

今の私に出口はありません、見えません

 

取り留めのない文で申し訳ありません

 

これで失礼します

 

卒業式の想い出

みなさん、こんばんは

今回は、今月のお題でもあります「卒業」をテーマに、私の生きてきた時代も振り返りながら卒業式の想い出を綴ってみたいと思います

 

私は昭和45年(1970)生まれです

私が経験した卒業式は、小学校・中学校・高等学校になります

 

とある市立小学校を卒業したのは昭和57年(1982)です

その頃は今とは違い生徒も数多くいて、一クラス35人ぐらいで五クラスか六クラスはありました

体育館に在校生や親御さん、先生方が集まり、卒業証書の授与(当たり前ですが)、卒業生、在校生それぞれからの贈る言葉などなど

当時、「3年B組金八先生」が全盛期だった頃です

その「贈る言葉」に乗せて、送り出されたのを思い出します

 

かれこれ40年近く前になります

その頃の校舎の大部分は老朽化のため建て替えられ、今では色鮮やかな学校に生まれ変わっています

6年生の担任だった先生は、なんと私の子どもが通っていた小学校の校長先生になっていたのは、びっくりでした

時代を感じさせます

 

余談になりますが、私が通っていた小学校には当時「みよちゃん便所」というものが存在していました(下世話な話題で申し訳ありません)

木造の古いトイレが運動場の片隅にひっそりとあり、運動場の周囲に植えられた桜とのミスマッチが変に印象に残っています

小学生の自分たちからすると、用を足すにもその薄暗い雰囲気からとても出来たものではなく(多分誰も使用していなかったでしょうね)、便所(トイレ)ということだけはわかっていました

名前の由来は、この小学校に通っていた「みよちゃん」という女の子が、便器の中に落ちて・・・水洗ではありませんので、肥溜めに落ちたんですね

そこで用足すと、「みよちゃんが便器に引き込もうとする」言い伝えがありました

(今から思えば、そういった話は巷でもよく聞くのですが)

お化け屋敷的な存在でした

 

卒業式が終わると在校生、先生方が中心となって、二人一組で人のトンネルを作り、拍手喝さいの元、卒業生は通り抜けます

とても爽やかな気分で、晴れやかな卒業式だったとの印象が残っています

 

時代からするとベビーブームにほど近い年代、今から思うと成長著しい同級生が多かったように思います

ちなみに私は、黒縁メガネをかけておりました(笑)

 

中学時代

私が住んでいたところは、通う中学校の校区の一番端で、もう百メートルも下ると自転車通学が出来た位置にありました

というと、徒歩で一番長い距離を通う羽目になります(涙)

その中学校は、道路から少し横に入ったところにあり、高台にあったため、長い坂道を登る必要がありました

坂道の脇には銀杏が列をなし、秋には黄色一色になってとても風情があったものです

小学校とは違い、生徒数は校区の都合からか少なく、クラスも4クラス

こじんまりとしていました

当時はもう「校内暴力」も下火になっていましたが、他の学校ではまだ残っていたようです(我が母校では、不良?呼ばれる生徒もいましたが、おとなしい方だったように思います)

 

さて、卒業式の話題に戻ります

中学3年、時代は昭和60年(1985)

当時、卒業式の慣し?というか流行りでしょうか、好きな男の先輩が着ている制服の第二ボタンをゲットする、うちの学校でも他にもれず女の子達はこぞってやってました

かくいう私も類にもれずと期待しましたが・・・残念でした

卒業式当日の中学生活最後のホームルーム

和やかながら凛とした雰囲気の中、先生が私達に贈る言葉を投げかけたその時、クラスメートで用意していた一輪の花を先生に贈りました

先生にとっては、まさにドッキリだったに違いありませんが、その時目に涙を浮かべていた先生の仕草が今も思い出されます

私はこの中学生活の中で、この3年生の1年間だけが唯一の良い思い出として残っています

そして、この担任の先生が一番心に残っています

自分を1人の生徒として、そして人間として親身になって見守ってくれた人だったからです

今、母校は廃校になり、廃屋だけが残っています

そのほとんどが辛い想い出ばかりですが、良い思い出もあります

朽ちていく学校を見るのは忍び難いですが、取り壊されず思い出に耽ることが出来るだけでもありがたいのかもしれません

 

余談ですが、学校のすぐ横に道が通り、そのまた横(つまり学校の向かい側)にお城のある桜の綺麗な公園があります

その昔「弁天橋」という赤い木造の橋が、道を跨ぎ架けられていました

当時、今ほど道は広くありません

多くの人が利用したのであろうと想像の域を超えませんが、体育館の側に今も「弁天橋」の柱の跡が残っています

つい最近行ってみたのですが、残念ながら柵に覆われ入ることすら出来ませんでした(涙)

 

高校時代

それまでの義務教育時代に別れを告げ、偏差値で志望校は難しいと言われたため、電車に乗り隣町の高校に通うことになりました

そういった理由もですが、「あそこの高校は、女の子の方が多くて、可愛い子もいっぱいいるぞ!」との噂につられ志望した理由も実はあります

確かに6:4ぐらいで女の子は多かったです

さて、高校時代

私は陸上競技に没頭しました

というのも中学時代、少々中距離走で記録を残したもので、有無を言わさず陸上部に名前が載っていました(笑)

中長距離、寂しいものです

華やかさはありません

隣はサッカー部です

当然、女の子の視線はサッカー部に、私達はそれを横目に黙々と走り続けていました

高校時代の想い出としては、生まれて初めて女の子から告白されました

小学生のとき、冗談で「結婚しようね」というのはありましたが・・

今から思えば半分後悔ですが、実はお断りしました(涙)

それから先は、期待も叶わず彼女も出来ず、寂しい青春でした

しかし、唯一誇りとなるものがあります

陸上の花「駅伝」です

地方の大会でしたが、チームは優勝し、私は区間2位で「敢闘賞」のメダルを

今も大切に飾っています

 

卒業式ですね

うちの高校には吹奏楽部がありました

小学校の時もそうでしたが、そのときの流行りの歌が流れ、送り出されるのが半ば定番の世の中

管弦楽器が鳴り響く中、卒業生入場、そして退場

でも、それはそれなりに感動的で、心に響くものがありました

卒業後、県外の大学への進学が決まっていた自分にとっては、まさに巣立ちにふさわしい卒業式だったと思います

 

その高校も廃校となりました

一つ違うのは、名前は残しまた新しい学校へと生まれ変わったことです

これからも生き続けて欲しいと心から願ってやみません

 

お題にそぐわず私の昔話が多くを占めましたが、これで終わらせていただきます

ありがとうございました

 

いじめの後遺症

こんばんは

お読みいただきありがとうございます

 

「いじめの後遺症」と題し、前回からブログを書いています

人は字の通り、人が人を支えあって、そして生きています

生きていれば必ず人との関わりが発生します

学校生活でも職場でも、そして家庭でも

私は人との関わりに、2倍、3倍と力を要します

誰でも少なからず気遣いをしながら人と付き合っているとは思います

 

人と付き合うには、言葉が必要です

その言葉を発するとき、詰まる、どもる(吃音ですね)となればどうでしょう

テレビでは「噛んだ」と言われ、突っ込まれる対象になります

これを聞いたとき、無性に腹が立ちます

なんと、無神経なのかと

ただ、話す商売だとすると仕方がないのかもしれませんが

 

私は人付き合いが苦手です、恐怖でもあり、煩わしさでもあります

挨拶、これも大事なコミュニケーションの一つです

1日は挨拶から始まります

1日の始まりである挨拶で詰まったたらどうでしょう

(語弊があったから申し訳ありません)普通の人なら何気もなく通り過ぎていく場面でしょう

しかし、自分に置き換えてみるとただ事ではありません

大げさと言われるかもしれませんが、一度失敗するとその言葉を発するのが怖くなります

ちょっと言いにくかったとしても、顛末がわかるのかその言葉を発しようとする際緊張が走ります

 

人と会話するとき、それぞれタイミングを図りながら話します

人が話しているのに、わざわざ被せて話しませんよね

「私の話をちゃんと聞いてるの!」となります

なので、ある程度の間が空く分、自分の準備時間にもなりますので、自分のタイミングで話し出すことが出来、またどの言葉(自分が言える言葉)で切り出そうかなと調整も出来ます

 

一番怖いのは電話です

電話を架ける、電話に出る

学生時代はアルバイトでもしていない限り、あまり遭遇しない場面だと思いますが、社会に出るとそうはいきません

会社同士のやりとり、一般市民とのやりとり、様々です

友人とであれば、半ば適当でも大丈夫ですが、仕事となるとそうはいきません

相手の顔がわからない分、電話の対応だけでことを進めなければなりません

そして、顔がわからない分、表情も伝わらないわけですから、言葉一つで相手の印象は180度変わります

一気に契約解消なんてことも

 

電話に出るとき、自分の会社名(事業者名)そして名前を名乗ります

また、名刺交換や会議の席で自己紹介する時もそうですよね

つまり、勤めている限り、日常とてもよく使うフレーズなのです

私は必ずと言ってよいほど、このフレーズの出だし(頭の部分など)が言えなくなります

最初は大丈夫だ!と安心していても、つまずいてしまうともうトラウマの始まりです

やっぱりか、という経験を幾度もしてきました

だんだんと自分が話せる語彙が少なくなっています

私は、今その中にいます

とても怖いです

周りは、皆何食わぬ顔して出来ているのに

 

電話に出て、言葉が発せられるまで数秒かかります

当然相手側としたら不思議に感じます

掛け間違えたのではないかと

 

また、言おう、言おうとして早口になったりもして「ゆっくり話してください」と言われたときもありました

 

こうした失敗体験は、忘れようとしても消えません

ある時、フラッシュバックのように現れます

 

言葉が発せられない、詰まらせてしまう、滑舌がうまくいかない

相手からよく「エッ!」て言われることがあります

聞き取れなかったのでしょうね

私にとっては、とてもショックです

うまく話せなかったのだと

なので、私はあえて聞き取れなくても「エ!」と言わないようにしています

 

このような現実の中で生きています

このような中では、進んでなんか人と関わりたくなくなりますよね

話さなくてもよい人生、すごく憧れます

 

いじめの後遺症

相手の顔色を伺いつつ、話せば揶揄われ、自然に無口になる

人が嫌になる、人から離れていく、友達もいなくなる

 

これが全てとは言いません

自分だって友達はいました

気の合う先輩もいました

自分を理解してくれる人もいます

一人ではありません

 

自分も人間です

当たり前の生活を送りたいです

面白ければ、自然に笑いたいです

仕事に没頭したいです

 

全てとは言えないかもわかりませんが、いじめの後遺症から来る、いじめられた人の未来だと

何十年経っても、どういう形であれ残るもの

今でも自分をいじめた者の顔、名前は忘れません

他のクラスメートは忘れても

 

これが「いじめ」です

 

ありがとうございました

 

いじめの後遺症

こんばんわ

いつもお読みいただきありがとうございます

 

社会不安障害の自分〜冷汗奮戦記〜でも書かせていただきましたが、私は中学生時代、もう30年以上前の話になりますが、同級生からのいじめにあっていました

小学生の頃は親しい友達もいて、わりと活発な少年だったと自負していますが、中学に進学すると「ネクラ」「むっつりスケベ」とのレッテルを貼られ、無口で笑うことすら躊躇うようになっていました

クラブ活動も休みがちとなり、たまに参加すると罵声を浴びせられ、抑圧された環境の中でますます足が遠のきました

また、花火大会に行こうと出かけた際駅でいじめていた側の同級生に会い、トイレに連れ込まれて顔を殴られたことも

長い年月が経ち記憶は途切れているものの、断片的ではありますが、今もよく覚えています

 

ある時、新聞のお悔やみ欄で私を殴った同級生が死亡した記事が載せられていました

ことも直さず喜び勇んだのは言うまでもありません

倫理的にこの感情はどうなんだと言われると、よくない感情だとは思います

しかし、いじめられた側の惨めな、憤りを隠せない私の感情は暴力を受けたその時と何も変わらず、ただ素直に喜びが湧いてきたのです

 

このとき受けた心の傷、私はそれ以後、現在もですが、人とうまく付き合うことが出来ません

一対一ならまだ良いのですが、複数となると仲間に入るのを躊躇い、入ったとしても何を話せばよいのか、振られたらどう返したらいいのか、そのことで頭の中がいっぱいになって、緊張も加わり早くそこから抜け出したくなってしまいます

ようやく切り出した言葉、また笑ったりしたとき、よく「〇〇さんが笑った」などと言われます

相手に悪意はないのでしょうが、いじめられていたころに同じことを言われた経験からその当時の記憶がフラッシュバックします

冷や汗が流れ、でも汗を拭うことも出来ず(汗を掻いている自分を知られたくない)、そして緊張はピークに達します

 

私には友達と呼べる人はいません

きっと自分から排除してしまっているのではないかと思います

 

煩わしさと拒否反応

今では、自分から交友関係を結ぼうという気持ちまで萎えてしまいました

家族と極々親しい人、それだけでいいと思っています

 

周囲の会話を聞いていると「昨日、友達がね・・・」とか「友達と〇〇に行ってきたの」など普通に友達というフレーズが出てきます

こんな自分でもやっぱり友達はほしいです、本当は

もっと積極的になれればと思いますが・・疲れました

 

今回、お題を「いじめの後遺症」としました

とある記事に体験文が載っていて、共通点に安堵し、そして共感です

 

何度かに分け、私の現在進行形の体験を綴らせていただき、同じ悩みで苦しんでいる方々の安心につながれば、そう思っています

 

お付き合いいただき、ありがとうございました

 

 

 

命の垣根

こんばんは

いつもお読みいただきありがとうございます

 

今回は「命の垣根」と題してブログを綴ってみたいと思います

 

(自殺者数)

警察庁が発表した今年1月に自殺した人の数ですが、全国で1627人(男1139人、女488人)、また世界中では毎年約80万人に上ります

 

(自殺とは)

読んで字のごとく自分で自分を殺すこと

自害、自死、自決、自尽、自裁などとも表現されます

 

(自殺する理由)

報道でよく取りだたされるのは、いじめなどを原因とした未成年者の自殺です

校舎の屋上からの飛び降り、電車に飛び込むなどして自ら命を絶っています

自殺は未成年者に限ったことではありません

成人し、社会人になっても人間関係、パワハラなど仕事に関わるもの

借金、離婚など実生活に関わるもの、そしてうつ病パニック障害などの精神疾患が起因するもの

前述した自殺者の内女性よりも男性が倍以上上回っている現状からも、行為に至った背景にあるものが見えてくるような気がします

 

(自殺するのは心の弱さから?)

日本は「死の文化だ」とする著書を読んだことがあります

第二次世界大戦までの日本は、「死(=自殺・自決)を美化する精神が日本人の心」そんな社会でした

忠義、忠臣という精神社会が基盤にあったのです

さて、現代社会においての死(自殺)はどういうものなのでしょう

以前は「家制度」が根本にあり、家長を中心として大家族をなしていました

戦後、家制度は廃止され、民主主義国家の成立と高度経済成長の中で、人は個別性を重視するようになり、相互扶養という概念は薄らいで、それぞれの生活を重視するようになります

そして、晩婚、少子化も相まって核家族が普通になっていきました

世帯員数が少なくなるということは、干渉や摩擦が起こりにくくなる一方で、孤独でいられる機会、時間も多くなります

家族は、人が社会生活を営む中では一番身近で最小単位のつながりです

 

地域に目を向けてみます

私たちは今自動車や各種交通機関、携帯電話の普及などから自由にどこへでも行き来が出来、外出中であっても気軽に電話で話が出来ます

しかし、そうでなかった時代、人は生まれ育った地域で暮らし、働き、家庭を持ち、そして一生を終える、それが半ば当たり前でした

そして、相互扶助の概念のもとムラが形成され、それぞれの自治により共生社会を営んでいたのです

社会生活という括りで言えば、家族の枠組みを超えた第三者との繋がりとなります

 

高度経済成長期以後、人の動きが活発になり人口の都市部への流入が大きくなり、ムラという集団が崩壊していきます

都市部への地方からの転出による人口の増加、人間関係の希薄化とともに世帯員の減少、「隣は何をする人ぞ」との言葉どおり近所づきあいもなく区や組にも属さない、

まさに孤独・孤立の中で暮らす人々が増え、情報社会の進展と同じくして地方にも拡散されていきました

 

現代社会、誰もが様々なストレスを抱えながら生きています

しかし、それを相談する、カミングアウトする、そうした家族、仲間がなく一人で悩んでしまう、その結果としのてアルコールや薬物、ギャンブルへの依存、うつ症状、失職、借金そして貧困、追い込まれた先の自殺

自殺には必ず原因と経過、そして理由があります

心が弱いのではなく、頑張りに頑張った末に引き起こる現象だと考えます

 

(まとめ)

命の垣根というお題のもと書き進めてきました

自殺とは、生きている自分を故意に殺すことです

垣根を越えるには、相当の理由と苦しみが必要だと思います

自殺を予防する取り組みがなされています

支援機関への相談と自殺の要因となっている事象を取り除く、或いは軽減することにより、行為に至らせないようにする

生きている自分を殺すこと、誰もが苦しみから解放されたいと思います

自分もそうです

その解放する、区切りをつける手段として自殺はあります

 

よく「頑張れ」と人から言われます

私はこの「頑張れ」という言葉は好きになれません

ですので、あまり使わないようにしています

誰だって既に頑張っているのですから

その言葉が、さらに追い詰めることになる

 

とりとめない最後となりましたが、これで締めくくりたいと思います

ありがとうございました

 

 

  

 

 

精神障害者への偏見と高齢者虐待 ⑵

こんばんわ

いつもお読みいただきありがとうございます

 

後編です

一つの高齢者虐待の案件だけではなく、地域の問題へと発展しそうな流れになってきました

 

自治会長さんを交えての懇談に)

この親戚という者からの連絡を受け、

・地域は、息子や家族に対しどういう目、意識でいるのか

自治会長さんと会って尋ねてみました

すると、息子始めこの家族のことは知っていたものの、特段親戚さんが言う

・また、ボヤを出すかもしれない

・この家族は村八分的な存在で、地域はみんな出て行って欲しいと思っている

と言う話はいっさいなく、出て行って欲しいなどとも思っていない

とのことです

 

再度、関係者とも話し合ったところ、どうやらこの親戚さんだけがそう思っているだけ?

とわかってきました

というのも、今回地域包括支援センターに連絡がありましたが、これまでは地域の関係機関に連絡が入っており、いわゆる『「でまかせ」を言いふらす人』でした

この方もおそらく知的障害者であり「自分の思いを地域の声として大きくする」そういう存在であったようです

今回他、息子の母親に対する暴力は確かにあったようですし、妻にしたとする包丁で威嚇するなどの行為も事実と思われます

これとは他に、この親戚さんそして地域の方々にも精神障害に対する理解を深めていく必要があるのではと思いました

 

この家族がこれからも地域で暮らしていくために

 

(虐待は続く・・)

そうこうしている中でさらに事は進んでおり、母親が息子から逃げるために家を飛び出し、野宿していたというのです

住民が朝母親を発見し、その住民宅に保護したのです

息子の妻もその様子をはっきり見ていました

そして、先の通報者(親戚さん)宅に行き、救援を求めていたこともわかりました

 

こうした事実から息子と母親、そして妻それぞれの分離が必要と判断、対策を検討しました

息子の病状に異変が見られるのは事実であり、息子の治療が最優先との見解で関係者は一致、病院との交渉です

訪問看護師が定期的に関わっていることもあり、また同じ法人である病院が息子のかかりつけでもあったため、入院の運びとなりました

ただ、社会的入院という背景もあるため、「今回だけですよ」とのおまけ付きです

 

(今後の対応はいかに)

息子とその家族との分離は成立

息子が入院している間に、息子が退院した後の妻と母親の生活設計をどうしていくかの方向付けをしていく必要があります

 

母親は高齢で寝たり起きたりの生活、認知症も見られるため、ほぼ要介護状態と言えます

息子は、厳しかった父親から庇ってくれた母親を大事にしていたといいます

母親は加齢から介護を要するようになり、息子も何かと世話をやいていました

母親は耳が遠く、そして息子はきちんと意思を伝えることが出来ない

そうした祖語が暴力となったと推察します

 

息子が治療後退院してきたとしても大きく好転するとは考えにくく、また暴力が繰り返される可能性・大です

母親の介護施設への入所が望ましいと関係者間で一致、要介護認定の申請と母親をどう施設に結び付けていくかが課題となりました

母親は元来他人との関わりを好ましく思っていなかったので、至難の業かもわかりません

 

そして妻です

妻の父母に登場していただきました

嫁に出した親としては、娘に対する夫からの包丁で威嚇するなどの暴力、このまま放っておけるはずがありません

とうのはこちら側に見かたであり、実際はこうでした

「娘を実家に帰すのも一案」とするものの、どうも煮え切らないのです

背景には知的障害がある娘、ここにも虐待がありました

結果、娘の意志もあって、妻として夫の退院を待つことになりました

 

(顛末です・・)

母親はというと認知症対応の施設への入居が決まり、すんなりと母親の同意も

息子はというと、入院後いわゆる陽性症状は消え、陰性症状へと変化、そして退院の日を迎えました

デイケア訪問看護などの医療サービスの拡充と関係機関の継続した関わりにより、再発を防止していく方向に⇒妻と過ごす時間を最小限とする

期間限定により様子を見ていくこととなりました

 

そして地域

今後時間を掛けて精神障害に対する理解を促していく方向で、自治会長さん、そしてあの親戚さんにも同意いただきました

 

長々とすいません

虐待そして偏見、とても奥深いものでした

お付き合いいただきありがとうございました

 

 

 

 

 

精神障害者への偏見と高齢者虐待

こんばんは

いつもお読みいただきありがとうございます

 

前回に引き続き私が勤務していた地域包括支援センターで関わった印象深い方々について書いていきたいと思います

 

(住民からの通報)

ある男性から電話があり「親戚のものだが、○○が息子に殴られ、家に逃げてきている」

さらに「息子はからが大きく、酒を飲むと何をするかわからない」と付け加える

男性に、殴られたとする女性について詳しく聞いてみると

・顔にあざのようなものがある

・昨日の夜家に来て、今はもういない

・逃げてくるのは今回だけではない、前にも2.3度あった

その女性は殴ったとされる息子とともに暮らす自宅に戻ったようだった

息子についても聞いてみる

・息子は40代

・妻、殴られた息子の母親との3人暮らし

・仕事には行っていないが、日中留守にしていることも多い

・何か話しているようだが言葉がよくわからない

・この辺では知らないものはいない

など

 

(情報収集)

各関係機関に問い合わせて聞き込みを開始、すると

・もう何年も前から関わっている

・春頃になると地域から連絡が入る、その都度見に行って母親や息子の妻から事情を聞き、息子にも注意している

・息子は統合失調症で普段は○○病院のデイケアに通っている

・息子の妻も知的に障害を持ち、家のことや母親の世話をしている

・母親は耳が遠く、息子もうまく喋れないことからお互いの意思疎通が図れず、それに対して息子がいらつき、つい手が出てしまうようだ

今回あった通報内容を伝えて、地元の関係者と一緒に自宅を訪問することに

 

(母親と息子の妻に会う)

自宅に行くと息子はデイケアに行っているのか留守

在宅した母親と息子の妻に事情を聞いてみたところ、母親は相当耳が遠いようで聞き取りは難しく、主に息子の妻から話を聞くことになった

息子の妻の話はこうである

・夫は普段おとなしいがお酒が入ると人が変わる

・怒鳴り声を上げたり、この間は包丁を持って襲い掛かってきた

・近所の親戚の家に逃げ込んだときもある

 

母親の顔には確かにあざがあり、殴られてから日が経っているのか色は黄色へと変わっていた

高齢で寝たり起きたりの生活を送るが、何とか杖をついて歩くことが出来る

耳が遠く、会話はあまり成立しない

認知症もあるようである

 

(息子とは・・)

関係機関からの聞き取りで息子の人となりが見えてきた

・息子は居住するこの家で生まれ育つ

・息子に対する父親の躾は厳しく、体罰もあった

・息子は家出し、とある町で住み込みで住み込みで働いていた時期もあった

統合失調症を発症したのも多感なこの時期である

・現在も関わりがあるこの○○病院で入院治療し、その後も入退院を繰り返す

特に春頃は気分も高まって病状にも変化が現れやすく、母親への暴力もこの時期に起こることが多いという

また、息子は地域では奇異な存在として見られている

・女の子を追い掛け回す

・無断で他人の家に入り込み、居座る

前述した「大きい体で、うまく喋れず何を言っているかわからない」というところも踏まえると、精神疾患をあまり知らない方々の認識として頷けるところである

 

(さて、親戚と名乗る通報者というと・・)

最初の通報から程なくして再度地域包括支援センターに連絡がある

内容はこうである

・あの家は昔ボヤを出したことがある

・おかしな息子夫婦と母親だけ、またいつボヤを出すかわからない

・周囲の者もみんな出て行って欲しいと思っている

・親戚というだけで迷惑をしている

 

この者の言い分を考察する、少し飛躍するところもあるけれど

・ボヤ騒ぎや地域が言う息子の異様な行動から

・地域では、息子を始めこの家族は、(意味は違うが)村八分的な存在となっている

・親戚だからと地域からいろいろな声が寄せられる(迷惑している)

 

こんなところでしょうか

一つの虐待案件から地域を巻き込んだ問題となっている可能性が

続きは、後編で

 

ありがとうございました