吃音を改めて考えてみた

こんばんは

いつもお読みいただきありがとうございます

 

私は過去のブログで「社会不安障害」に悩んでいる

そして、そうした中で奮闘してきた自分について書かせていただきました

ブログでも書きましたが、「言葉が思うように出ない」、頭に中では何を言いたいのかがきちんとわかっているのですが、それが言えない

駅で切符を買おうとしたが、窓口で駅名が伝えられない

なんども列に並び、ようやく買えた話

特定の言葉(自分がかつて言えなかった言葉)、そして言えていた言葉が、詰まってしまったことがきっかけになって、言えなくなってしまった

まだ、会話の中でなら、さして緊張もしていない中なら言えるのに、電話を架ける、受ける、また自己紹介など、人前で話さなければならないときは、不安や緊張に苛まれながら、発汗からさらに緊張が高まる中で、発語するその時を迎える

言えたらホッとするけど、言えなかったら・・・・

そうした自分と対峙する中で、いじめられた過去、人との付き合いを拒否するようになった経緯から社会不安障害(社交不安障害)となって久しい今を振り返らせていただきました

 

新しい職場となって本格的に稼働することになった今、この言葉が言えない(吃音)症状が増しています

昔からそうなのですが、働く上で必ず必要になる会社名(事業所名)が言えない、最初または別の言葉で詰まってしまう

だから自分を名乗るときにまず詰まってしまうので、後はそのことで頭がいっぱいになって、集中力は衰え普通の時のたぶん半分程度の力しかはっき出来ない

今、そういう場面に立たされています

特にこの時期、自己紹介をする頻度が高くなります

その度に不安、緊張、恐怖と戦わなければなりません

そして仕事上必要となる電話での応対(架電・受電)、まさに1日中戦争です

なので、自分が今後どうなるのか、きちんと仕事が出来るのか、先が読めません

 

そうした中、改めて吃音という言葉に触れる機会がありました

いわゆる「どもり」です

自分の症状とぴったり合います

そうだ「吃音だ」と思いました

それまであまり気にかけてはいなかったのですが、記憶を紐解くと確か小さい時分、親から「どもる」そして話し出したら止まらず、そして口が追いつかず早口になる、指摘され、またそれに効くとされる家の近くの祠にお参りに行った出来事が思い出されたのです

 

その本によると、吃音に悩む人は100人の1人とされ、国内に120万人いると書かれています

また、吃音に対する歴史は古く、これまで親の躾(特に母親の)方によるもの、脳の気質的なものによるもの、遺伝によるものといろんな説があります

今となっては何が原因かはわかりません

それよりも現実から打破したい、それだけです

 

吃音には、連発(お・お・お・おはよう)、難発(・・・・・おはよう)があります

私は両方だと感じています

会話するとき、自ずと人と対面します

言葉が出ない、もしくは吃っていたりすると、相手は不思議そうな、怪訝そうな表情を浮かべます

あれっと感じるのでしょう

その気持ちはよく理解出来るのですが、取られた方の自分にとっては、言いたいことが言えなかったショックが落胆に変わります

引きつりながらも表情を装って何とかその場面を終えますが、人とは違う自分、普通ではない自分という閉塞感を常に持ち続けることになります

 

私は、今この症状をカミングアウトしています

人に話し楽になるのかどうかはわかりません

吃音は普通に話せる人にとっては理解出来ないものです

吃音を持つものも、自分をカモフラージュするのに必死です

なので、一目では吃音者とはわかりません

また、いくら吃音者でもいつもいつも吃っているわけではありません

スラスラ言える時はあります

だから余計に吃音はわかりづらいでしょうし、この辛さはあまり理解されません

よく、「慣れたら大丈だよ」って言われます

慣れは確かに大切だと思います

慣れることによって、トラウマは軽減されるかもしれません

誤魔化し方も板につくのかもしれません

でも、根本的な解決になるのか、そういう問題ではない、そう思います

 

先にも書きましたが、今言葉の壁に立ち向かいながら生きています

心が落ち着いている時、あっ今日は口が軽いと思える時、吃音から解き放たれることがあります

言えているのです

なにものにも代えがたいひとときです

普通に言葉が言える喜びです

そんな中でさえも、ちょっとした意識の差、タイミングで吃音は起こります

吃音は突然やってきます

自分は意識していなくても、体は意識しています

 

何度も書きますが、吃音はその状態、その場面を見せない限り、他人にはわかりませんし、理解されません

しかし、いくらカミングアウトしたとしても、その自分をさらけ出すには相当の勇気がいります

自分にもプライドはあります

 

吃りは発語するタイミングによって起こるものとされています

独り言で話す時は吃音は起こりません

自分のタイミングで話せているからです

人と対面する時、電話で話す時、どこかで必ず意識しています

吃音は訓練等で軽減出来るとあります

しかし、治癒はしないでしょう

吃音、そして社交不安障害、精神薬、人生を狂わされました

今、最悪の時にいます

生きることへの価値を見出せないでいます

 

最後に吃音が治ったらどう思う?

と問いかけられたとしましょう

吃音が治ることにより、それまで被ってきたものを脱ぐ必要に迫られます

吃音を理由に自分を守ってきた術があります

それを取り払わなければならない

要するに、自分を変えなければならない

それはそれでとても恐怖だし、計り知れない労力を要します

そうなら一生このままで、という気持ちにもなります

 

私は普通ではありません

普通とは何?って言われそうですが、簡単に言えば普通に話せている人です

それだけです

 

今の私に出口はありません、見えません

 

取り留めのない文で申し訳ありません

 

これで失礼します